黒紗夢日記

黒紗夢の日記です。読み方は「くろじゃむ」でも「クロッサム」でも構いません。 格ゲーでは「くろっさむ」で、他は「くろじゃむ」です。
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アリス可愛いよアリス
最近ラノベを全然読んでいない黒紗夢です
ストックもないけど、外出をあんまりしないから読む時間がないというね
ネトゲをする時間があるのに、ラノベを読む時間がないなんておかしいね
どうしてだろうね

閑話休題

今日も、ネタはBBCS2を少しやった程度しかないんですよね
しかも2クレ
ハザマにフルボッコにされて、これは連コしても意味が無いと思って即帰宅
後々考察して、やっと少し分かった程度
プラチナでハザマとかマジ無理す
ラグナ無理ラグナ無理って言ってた奴らは対策書いたらその声は消え、マコトも五分だって言う論争をして沈静化し…ハザママダー?(・∀・ )っ/凵 ⌒☆チンチン
ハザマがほんと対策が思いつかん
JCとかぬるいわ
探さないとなー

で、ネタもないからまどかマギカにちなんで死生観
何がちなんでるんだよって感じですが、魂がどうたらってことで、アニメの内容は大好きなアニメだからネタバレいくない思想で書きません
最近の風潮…と言っていいのかどうか分かりませんが、大体最近の死生観で「死の定義」というのが以下の二つに分類されています

生体反応がない
誰からの記憶からも消え去る

まぁ、前者は普通の生命としての死亡ですね
本当は呼吸停止、心臓停止、脳停止、という三つの項目がすべて行われた場合に死亡とするとかそういうのがあるんですが、そっちはそこまで深く考えないので、生命の停止として一括りにします
後者は最近よく見かける記述ですよね
関わった人間の全員から忘れ去られたら、その人は死んだことになる…なんていうのを見ます
つまり、記憶としての死ですね
当たり前ですが、記憶≠記録です
過去の偉人達の日記やなんかはその人個人の記憶を留めた記録であり、記憶そのものではありません
さて、話を戻して、この「記憶の死」というのは果たして本当にそうなのでしょうか
多分、昔だったらそうだ、と自信を持って言えると思います
しかし、時代というのは移ろいゆくものです
フロイトのように、ショーペンハウアーのように、近代哲学は昔と様相を変えてきました
記憶の死
では、少し考えてみましょう
近代において、インターネットが主流となったこの時代、昔とは全く異なる人との交流の仕方がされ始めています
それの典型がチャットです
チャット、これは人との交流と言えるか否かと言われれば、肯定をしなければなりません
もし仮に相手がコンピュータであり、人との関わりではないと仮定するならば、それは今現在の世界は誰とも交流をしていないということを肯定しなければなりません
つまり、ここではチャットというのは人との関わりが確かに存在するはずです
さて、ここで問題となるのは記憶です
記憶とは、その人が過去において関わった経験や体験です
ここで問題となるのが、チャットというのは記憶に残るのか、ということです
残らない仮定をするならば、チャットというのは、その人個人の人生において何ら影響を及ぼさなかったということになります
つまり、仕事においても、プライベートにおいても、チャットというものは無為無価値であり、存在しないものと同義になります
これではおかしい
つまり、記憶として残るでしょう
しかし、ここで少し問題が発生します
チャット相手を仮にA君としましょう

私が今会話している相手は本当にA君なのだろうか?

ここに、確かめる術はいくつかあるかもしれません
しかし、相手を見ないチャットというツールでは、今までの会話からしかそれを推測、推察するしか本人であると確かめる方法がありません

では、第三者B君が私とA君のチャット記録をすべて読み、覚えて、A君になりすましたらどうなりますか?

ここで問題になるのが、B君が例えA君になりすましたとしても「私」には知るすべがありません
名前という存在を偽り、語りという雄弁を示し、私の記憶としての「A君」という定義を変えています
しかし、この時点でも私は「B君」のことを「A君」だと思い続けています
それは、果たして記憶と言っていいのでしょうか?
ここでもし仮に、A君が死んでいたとします
けれども、死んでいるにも関わらず、「A君」と懇意であった「私」を不憫に思った「B君」は「A君」になりすまし、何食わぬ顔で私とチャットをしても

私はA君とチャットをするという記憶がある

ということを、どう否定することが出来ましょうか
確かに、神の視点(第三視点)から見ればこれは

私とチャットをしているのはB君である

という断定は確固たる事実であり真実です
しかし、私にとってはこれが記憶であり、知識であります
さて、この時点で最初に記述した「記憶の死」を論駁していません
では、次に

「A君の記録を手に入れた人工知能がA君になりすましたらどうなりますか?」

今現在、研究はまだまだ進んでいませんが、私がこれから研究しそうな研究に「小説の人物と会話するシステム」というのがあります
多分、今の段階では完全ななりすましは難しいでしょう
しかし、近い将来そういうシステムは出来るはずです
そしてそれは、私とのチャット量に応じて知識を増やす人工知能は量が多ければ多いほど正確になります
つまり

人工知能との対話

になるわけです
これは果たして

記憶の死

を正しいと言うことが出来るのでしょうか
前述の場合、A君を知っているB君がいる時点で「記憶の死」をまだ遂げていません
しかし、後述の人工知能の場合、確実に「記憶の死」を遂げています
これの前提には、「A君は私以外と知り合ってもいないし、誰との記憶も共有していない」という前提です
が、これは少なくとも実現不可能な事態ではないはずです
人工知能との対話は正しく「記憶」として良いのでしょうか

A君とはこういうチャットをしたという記憶がある

と言い

まだA君は死んでいない

と正しく言えるのでしょうか
「私」は生きている「A君」と「対話」をしたことがあり、「私」が死ぬまで人工知能と「対話」をしていようとも正しく「記憶」ではあります
さて、長くなりましたが、ここで私が死んだとしましょう
しかし、「私の娘」と「A君になりすました人工知能」が実は対話していた場合どうなるでしょう?
これは、正しく「A君との記憶」と言えるのでしょうか?
この場合、「A君との記録」にはならないのでしょうか?
つまり
「肉体的にも、記憶的にも死んでいる」
はずなのにも関わらず
「私の娘はA君の記憶を持っている」
と認識しているはずです
これは「記憶の死」と矛盾しないでしょうか?

ちょっと長くなりすぎたので、ここらへんで割愛
みなさん、どう思いましたか?
ちょっと途中で色々長くなると思って省いたり、噛み砕き過ぎたりしている気もしますが、言いたい事は伝わったでしょうか
ネタがない時に、またこの話をするかもしれません
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